2022年11月25日 今日は母の93歳の誕生日です!



おはようございます!

今朝も笑顔満開、お元気で朝をお迎えでしょうか。


私事で恐縮ですが、

宮崎のケアハウスに居る母の事、書かせて頂きます。

1ヶ月前の10月25日、すぐ下の妹と一緒に母に逢いに宮崎へ。

ずっと面会が禁止されていて、2年8ヶ月振り、15分間の面会でした。


「お母さん、会いたかった~会いに来たよ!」と。

髪の毛を撫で、顔を撫でながら話をすると、顔をくしゃくしゃにして涙を・・

短い面会時間を、妹と代わる代わる撫で触りながら話しかけました。

嬉しい感謝の時間でした。


母は話をする人もなく、目も見えなくなり

テレビを見ることもできません。

もしかしたら、もう私たちの事が分からないかも知れないね・・と

妹と話し、ドキドキしながら「お母さん!」と。

母は分かっていました。

“何故私たちの事が分かったのだろうか・・・”と、考えてみました。

母は昔から毎日寝る前に、子どもや孫たち、ひ孫たちの名前を

言葉に出して祈るのが習慣になっていました。

目が覚めている間、思い出してはみんなの名前を口に出しているようです。

どんな時でも、考え工夫し、やり続ける母です。


18歳で私を産んでくれた母。

現金収入の少ない沖永良部島から、5人の子どもたちに仕送りするのは

並大抵ではなかった事を、妹たちから聞いています。

下宿から民宿、そして小さなホテルを経営しながら。

悲願とも言える、亡き祖父の跡継ぎ・・弟を医師に!


先を見据え、しっかり考え、時には積極果敢に挑戦。

例えば沖永良部島台風・・・

1977年9月 日本の陸上で最低気圧905hPaを記録した台風。

その年に母は思い切って古い木造から鉄筋コンクリートに建て替え、

ホテルとして営業していました。

多くの方々の避難所になったり、島の多くの家が倒壊、家を建てるための

人たちが本土(鹿児島など)から大勢来て、宿泊していたそうです。

「あの時、思い切って鉄筋コンクリートにしていなければ・・

台風後は資材は高騰、人手もなく・・・建て替えは難しかった」と話していました。

大変なことも最後は母が決断していました。

(父は耳が聴こえなくて、周りから大事大事にされて育ってきていましたので、

母が全面的に動かなくてはならなかったのです)


母の人生は決断の連続、チャレンジの連続。

困難に出合う時、

「母ならどうするだろうか?」と、母のことを思い出すと、すぐに答えが出ます。

「あの母の子なら私もできるはず!」と、勇気を貰い進む事ができます。


多くの事をその後ろ姿で示してくれた母。

母のように、子どもたちに

「母の子ならやれる!できるはず」と思ってもらえるような

生き方を残せるようになりたいです。


「お母さん、私たち5人を生み育て、

 教育を受けさせてくれてありがとうございます!

 生きててくれて本当にありがとうございます!

 また逢いに行くから、待っててね、お母さん!」


みなさん、今週もお読みくださりありがとうございました。

素敵な週末をお過ごしくださいますよう!



村山順子

閲覧数:5回0件のコメント