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大好きな村山の父のこと!

おはようございます!

今朝も笑顔満開、お元気で朝をお迎えでしょうか。

新型コロナウィルスの、予防ワクチンの接種の仕方について、

保管方法、接種場所、接種券の配布等々、話し合いが進められようとしています。

ワクチンは医療従事者や、高齢者、基礎疾患を持っている方々から順番に始まるようです。

精度の高い、予防ワクチンでありますように祈り願います。


話は変わりますが、

昨日のメルマガに故郷、沖永良部島のことを書きました。

無性に亡き村山の父のことが、思い出されてなりませんでした。


父をはじめ父の兄弟たちは、貧しい暮らしをしていた両親を助ける為に

早くに神戸に出て、川崎製鉄やダンロップで働いたそうです。


当時の沖永良部島の多くの人たちは、

子どもは多く、生活が苦しかったそうです。

沖永良部島から神戸に働きに出てきた身内を頼って、

上から順番に田舎から出てきて、一緒に住みながら働き、

親に仕送りしていたそうです。

「親が喜んでくれる事、親の借金が返せることが嬉しかった」と、

父は話していました。

ハングリー精神いっぱいの、やる気のある人が多く、

お金を貯めて家を建て、アパート経営をする人が多かったそうです。


父もその1人です。

特に熱心だったのが子女の教育でした。

「大学を出ないと、良い仕事にもつけない!」と両親。

亡き夫も、両親の願いに応えました。

両親にとっても自慢の1人息子でした。


また先人たちは、故郷沖永良部島出身の人たちが、

気兼ねする事なく集まり、方言で話ができ、お酒を酌み交わし、

三味線を弾き、歌う、ことができる“会館”を建てました。

私が13歳で、勉強のため沖永良部島から神戸にきた時・・

昭和35年ごろには、すでに古い木造建築の会館が建っていました。


寄付金を集めて作ったようで、土地も購入していました。

その後、鉄骨の3階建てに建築・・その時、父が理事長をしていて、

私も父の手伝いで、喜んで寄付金集めにまわりました。


その後、父も亡くなり、

古くなった建物をさらに建て替え、完成した直後に

阪神淡路大震災!

新築の会館の利用開始は、

地域の避難施設として半年間、被災者の受け入れ施設として使用。

沖永良部島出身の人たちだけで無く、

地域にとっても、なくてはならない会館になりました。

私が知る限りでも会館は3回建て変わりました。

随分前から、財団法人となっています。

今は、沖永良部島を知らない三世、四世の人たちが多いです。


亡き夫も私も、父の手伝いをするうちに、

自然と会の手伝いをするようになりました。


父に話に戻しますね。

自分にも人にも厳しい父でした。

役員会には、いつも1番乗り。

時間に遅れる事はありませんでした。

役員会でも、大切な会の費用で、飲んだり食べたりする事を許さず、

自分が食べるのだからと自分持ち。


「みんなボランティアでしているから、

飲んだり食べたりするくらいは、会の費用でしてくれたら良いのに・・」

との意見も多く、警察官だったという仕事柄からかもしれませんが、

父の想いは変わらず、孤立することもありました。


そんな時、父は寂しそうに帰ってきて、

会であったことを、私に話してくれました。

私が「お父さんのしていることに私は賛成よ!私もお父さんと同じ事をすると思うよ」

と話すと、

父の顔はパッと明るくなり、

「順子ちゃんがそう言ってくれたら、それで良いなぁ!」と話しながら

笑顔になっていました。

そんな村山の父と優しい母が、私は大好きでした。

そんな両親の元で育った夫!

思い出すだけで、優しい気持ちになります。

止めどなく両親や、夫への想いが溢れてきます。


朝から思い出話になってしまい、失礼致しました。


寒い1日のようですが、

「今日1日が一生」の思いで、

過ごします。


みなさんに良いことがありますように!



村山順子

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