2025年11月27日 母の娘ならば・・
- 村山順子

- 2 日前
- 読了時間: 4分

おはようございます!
今朝も笑顔満開、お元気で朝をお迎えでしょうか。
昨日の続きを少し書かせて頂きます。
(長くなります。お手隙の折にお願いいたします)
母は、戦争中、沖永良部島から「女子逓信隊」として選ばれて、東京で働いていたそうです。
叔母(母の妹)たちから聞くに、母は頭がよく、また走るのも早く、選ばれて朝礼台で挨拶をしたりする頑張り屋さんだったそうです。
父と母の父親同士は友達。
医者をしていた祖父の後継と思っていた、軍医をしていた父の兄が、ペリリュー島で戦死。
後を継ぐ父(耳が聴こえませんでした)の結婚相手には、“多くの兄弟の真ん中で、揉まれて育った娘が良い”と、10人兄弟の真ん中の母に、白羽の矢が。
東京にいた母は、泣く泣く沖永良部島に帰り、泣きながら父のもとへお嫁に。
家族は、父の妹の叔母たち、看護師、お手伝いさん、両親、祖父母と大勢の家族。
何度か実家に帰ろうとしたそうですが、父親に家に入れてもらえず、泣く泣くまた婚家へ。
そんな母の味方をしてくれたのは、今は東京のケアハウスに居る99歳の叔母だったそうです。
すぐに私が生まれ、みんなが私を可愛がってくれて嬉しくなり、母はやっと婚家に馴染めたそうです。
母の人生は決断の連続でした。
中でも、民宿をしていた木造の古い大きな家を、鉄筋コンクリートホテルに建て替える事は一大決心だったそうです。
沖永良部島は「台風銀座」と言われるほど台風の多い所。
台風の度に、近所の方々も来て、広い家のガラス戸を雨戸で囲い、またそれを風で飛ばないように板で打ち付けて戸締りをしてくれていた記憶があります。
母は銀行から巨額の融資を受け、ホテルを完成。
その直後の1997年9月9日、最大風速55メートルの「沖永良部台風」が!
殆どの木造家屋が被害に。
新築まもないホテルを、母は近所の避難所にしました。
暫く一緒に暮らした後、皆さん自宅に帰り家の再建に。
でも、建築資材が手に入らない、値段が高騰、建築してくれる人が居ない・・
母はまたホテルを、鹿児島などから来てくれる建築に携わる方々の宿泊先としてフル稼働。
それは数年続き、出張先として定着。
役場の隣だった事もあり、出張者にとっても便利だったそうです。
早くに借入返済できたそうで、母が経営者として生き生きと働いていた、一番やり甲斐のある時期だったのかと。
ですが、多い時は5人の子どもたちのうち3人重なっての仕送り。
弟は医学部。
妹たちも、実家に居る時は部活などできず、母の手伝いをしていたそうです。
ホテルだけの収入では足りなくて、母は仕出しもしていました。
見栄えが良く、美味しい母の料理は、皆さんに喜んでもらっていたそうです。
そんな母の姿を、私は神戸に来ていましたので、そばで見ていません。
その分、実家に帰る時は気合いが入っていました。
大学生の頃も、教師になって夏休みに帰る時も、空港に降り立つと、気持ちが引き締まります。
「何をして母に喜んでもらおうか?」を考えながら実家に。
すぐにエプロンを付けて手伝い!
妹たちに聞いてみると、みんな私と同じ気持ちだったとの事。
「どうしたら、母に喜んでもらえるか、楽になってもらえるか!」 と。
ですから、苦難に出合う時、『母ならこんな時どうするだろうか?』と、母を思うと、すぐに答えが出ます。
そして思うのです。
「あの母の子なら、私もできる!頑張れるはず!」と。
そんな生き方、後ろ姿を遺してくれた母!
「お母さん!ありがとうございます!」
私も子どもたちが大変な時に、思い出し、頑張る力のもとになるような母親の生き方・・をのこしたい!
そんな事を思う今朝です。
今朝も長くなり、申し訳ございません!
(いつか父の事も書かせて頂きますね)
みなさん、今日も笑顔溢れる、楽しい一日でありますように!
村山順子
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